病んだ母とケアについて

この記事は私の吐瀉物のようなものだ。

記憶の中の母は常に精神を病んでいる。今も状態はすこぶる悪いようだが、母と会わなくなって、コミュニケーションらしいコミュニケーションを取らなくなって久しいので、実際の様子はわからない。

高校生の頃、私は母と一時的に2人暮らしをしていた。当時、母は家から一歩も出なかった。隣家との垣根に背の高い板を張り巡らし視線を避けた。玄関先のコンクリートの通路に波板を敷いた。人が歩くとザクザクと大きく不快な音がして、家の中にいても気が付くためだった。

私は母に最寄り駅への行き来のルートを指定されていた。家と駅の最短距離ではなく、ひどく迂回して人通りのある大通りを使うように。「私、心配性だから」が彼女の口癖だった。毎朝、登校前に500円玉を渡されて、帰路ファミリーマートで日経の夕刊とスナック菓子を買う。夕刊を手に家に帰る。革靴でバリバリガサガサ音を立てて入っていく玄関。雨戸を閉め切った部屋は薄暗い。ソファに小さく縮こまった母がいる。青白い顔の母に夕刊を手渡して、スナック菓子を抱えて2階に上がる。通学鞄を持ったまま掃除されていないトイレに入り、鞄から弁当箱を静かに取り出し、中身を下水に流す。大きな具材が詰まらないように、咀嚼して吐き出すこともあった。

母は家事ができる状態ではなかったが、それでも彼女の中に理想の主婦像があるらしく、「子供に栄養価の高いものを食べさせなければ」という意識だけは強かった。だからどんなに調子が悪くても食事はずっと母の手作りだった。食材は宅配で買っていたと思う。塩分は悪で、家には食塩がなかった。私は毎日、塩を一切使わない、そして非常に量が多い弁当を持たされた。固い七分づきの米と無味の卵焼きと何かしらのおかずが詰まった、白いプラスチックに透明の蓋の平たい弁当箱。学校の購買や食堂の利用は許されない。いつ頃からか母の手作り無塩弁当が食べられなくなって、ほとんど手を付けずにトイレに捨て始めた。確かクラスメイトが「食事を自分で吐いた」と言っていたのを覚えていて、真似したんだと思う。今も続く過食嘔吐が始まるのはこの家を出たあとのことだが、今思えば食べ物を噛んで吐いてトイレに流す一連の動作はこの時期に完成されていた。トイレの水には私の捨てる食べ物のせいでうっすら油が浮いていた。

夕刊のおつりで買うスナック菓子の塩味がおいしかった。菓子は自分の部屋で食べた。自室の扉は閉めてはいけなかった。部屋の中がいつでも見えるようにしておかなければいけない。何年も開けっ放しにされた戸は、金具に癖がついて閉めるほうが難しくなっていた。どうしても閉めたいときは、戸を背にして床に座り込み、もたれかかって開かないようにした。でもそうしていると、戸のすぐ外に母が立ち、ため息をつくのが聞こえる。

目に見えないルールはもっともっと山ほどあった。全ては母の強い被害意識から来ていたと思う。私は母へ質問してはいけないと知っていた。母の行動や表情には絶対に触れない。母とのコンタクトが必要な際はよくよく様子を伺い、空気が緩んだ瞬間を逃さない。母の敷くルールに抗わない。10代で構築したこのスタイルは身に染みついてしまった。接する相手を不快にさせないという最大目標のせいで汎用性が高かったこともあり、大人になった今も抜けず、自分にとって人間関係の負担を非常に重いものにしている。

最近ヤングケアラーという言葉が人口に膾炙してきたが、私は自分が母をケアしていたとは未だに思えない節がある。ただ、病んだ母を死なせず、自分のストレスも最小限にして共存するために取った行動が、ルールに従う「良い子」でいることだっただけだと思っている。

コロナウイルスの感染拡大を受けて、母は再びかつてのように1人で家に引きこもっているらしい。先日、しばらく続けていたパートを辞めたことと、電話番号が書かれたショートメッセージが届いた。相手の要望を察して喜ばせる方法こそコミュニケーションだと思い込んでいる私と、もう十分だ、私がケアすべきではないと主張する私が、未だに激しく戦っている。大人になってから母を喜ばせようと装い振る舞った結果の負荷が大きすぎて、会食のあと私のほうがひどいうつ状態になったことも一度や二度ではないのに。私は、母が死なないなら、私が死んでもいいのだろうか。