曖昧でいることが明確なのに、この世は曖昧さを明確に許さない

私の生きる形とこの世について。

トランジションについて再度考え始めた理由としては、QOLを検討してもいいと思えるくらいに精神が元気になったから、というのがあると思う。元気になったっていうのは、もちろん元気もりもりなんかではないんだけど、希死念慮が大きすぎると「よりよく生きる」とか「身体とうまく付き合う」とかが理解不能な概念になるから。

私は私を性同一性障害だともトランスジェンダーだともアイデンティファイしていない。じゃあ何かと言われても、黙りこくる。強いて言うならジェンダークィアがいちばん近い……のかな。ノンコンフォーミングと名乗ったこともあるが、わかんねぇな、今はわかんなくていいか。何もしっくり来ない。

2021年6月現在、私は「GID正規ルート」に則って、不可逆の「治療」にもアクセスしようと思ってる。だけど、それは自分がそこに当てはまると思うからじゃない。(相対的に)安全で確実な手段、を選ぶための手段として現実的だと思うから。

……などと、言い訳じみてくるのはなんでだろう。なぜ言い訳しなければいけないと感じるんだろう。どこに向かって言い訳してるんだろう。そんなもん勝手にすりゃあいいのにね。


だってあまりにもこの世の仕組みが曖昧さを許さない形になってるから。CIS-TEM。

 

本当は洗いざらい話したい。言い訳をしてしまう理由だって本当の本当はわかっているのに、言葉にする行為そのものを言い訳してしまう。遮らないでくれ。そんなことをしなくたって、私の口から言葉はすらすら出てこない。典型的な性別違和のエピソードも、曖昧であることについての堂々たる思いも。待ってくれ。まだ少し時間が欲しい。

「元気になった」とはいえ、今も具合が悪くなると自動的に「死にたい」が口をついて出てくる。でも病院送りになったり警察沙汰になったり実際死んだりしたら、そこでの私の取扱いは100%シスジェンダーの女性なのである(ついでにヘテロセクシュアルでロマンティックの、と思われる。私はいずれにも当てはまらない。しかし今は置いておく)…という事実に思い至り戦慄する。仮に死んだとして、誰も葬儀なんかを上げないでほしい。頼むから戒名なんかつけないで。死んでまで性別を塗りたくらないでくれ。

そしてここまで怯えておいてまた気付く。例え今の私が望む姿形や諸々を手に入れてから死んだとしても、この世の強固なシス-テムの下では残念、私は「女性」の枠だ。そのように判定される範囲の変化を私は望んでいるから。と、思うと無の表情。

心がポキポキ折れやすいので、前に通院していたとき「ナベシャツでもいいんじゃない?」と言ってきたクリニックに再度行く気が起きなかった。それで、問診にすごく時間をかけるという噂の、やや遠い場所にあるクリニックに初診で行こうかと考えた。だけどそれすら躊躇して、また別の場所のカウンセリングの予約をした。 

二十歳になる前後、登録制のバイトに応募したとき、集められた会場で「男性はここから手前に、女性は奥に座ってください」という指示が出された。当時の私は取り繕うこともできずに、反抗というより素直な逡巡の結果として、指定された範囲をはみ出してひとりで椅子に座った。あのときの感覚と行動はある意味正しくわかりやすかった。私自身を私自身に説明するにはとてもわかりやすかった。当時の私の精一杯の自己表現。困惑する担当者。でもね私も困惑してたんだよ。

今の私は説明できない。同じ状況に置かれたら、きっと苦虫を噛み潰しながら「女性」たちに紛れて「奥」に座る。それが社会だと思っているから。あの頃から時間を掛けて私は学習してしまった。私に、はみだせる椅子は用意されていない。たとえあったとしても座っていいのかわからない。

わかりたい。知り合いや家族からどう見られるかは保留して、私が私をどうしたいか、どんな私なら生きてもいいか、もう少し明確に考える必要がある。考えた結果が4年前と同じ「私がどんなになりたい姿になったとしても、こんな社会では生きられない」であっても、それでも何らかの道筋を見つけたい。今の体力なら探せるんじゃないか、と思えるのがせめてもの救いかもしれない。

 

カウンセリングまであと10日。