感想:NetflixでDisclosureを観た

Netflixオリジナルドキュメンタリープログラム「トランスジェンダーとハリウッド:過去、現在、そして」(原題:Disclosure)を観終わり疲れてるところ。語り、映像、とにかく情報、引き出される己の感情の量にやられる1時間47分だった。パワー。

ちなみに、このプログラムを見るためにNetflix契約した。後悔はしていない。

 

Disclosure公開の話を聞いて最初に連想したのはやっぱりThe Celluloid Closet('95)。VHSで観たのはいつだっけ、10年くらい前かもしれない。15年の時を経て、今回見て得た第一の感想は、インターセクショナリティー…!って感じだ。例え道半ばだとしても。


インタビュアーである監督はじめ、インタビュイーも当事者のみ─オープンリー、元ステルス、世代もアイデンティティも様々な人たちが次々出てきてそれぞれにリアルな話をする。圧巻。

いくら登場人物がハリウッドの映像関係者しばりとはいえ、ああ、これだけ様々なトランスの人々がいるんだなって思わせる。その姿を見るだけでもかなり心が揺さぶられる。そしてトランスの表象の変遷にも動揺する。

客観的に見られるほど、私は距離を取れておらず、成熟?してもいない。観たことのある映像作品の断片が流れるたび、そしてそれが凄惨なシーン(暴力的というだけじゃなく、人としての取り扱いが、って意味で凄惨)であるたびに、ヒッと息を飲んでしまう。そして時折呆れて笑ってしまう。どれもこれも、わかっているのに。あるいはわかっていなかったからこそ。言われて改めて観て気づく差別性は、気付かなかったショックも含めて私を殴ってくる。

 

プログラムでは特に、ハリウッド作品における黒人性の消去、簒奪という点にすごく時間を割いていた。何もかも、当事者抜きでことを語るな進めるな上書きするな。これに尽きる。障害者の自立生活運動に言葉を借りるなら、Nothing about us without us.

黒人男性表象のステレオタイプとして過剰に男性的な描写があるが(つい最近もNHKがやってしまった)、それが「黒人“男性”が女性にトランスすること」を笑い者にする文化の背景にある。

ブラックフェイスと異性装の関係もなかなかにショッキング。ブラックフェイスで男から女への移行は粗暴な従者に、白人で女から男への移行は紳士な貴族に。知らなかった古い映画を見て目を開かれる感じ。自分の無知さ。この「ジェンダーの移行によって社会的身分の上下が起こる」というのは根深いし、現存しまくりじゃあないか、と思う。

また、Boys Don't cry('99)のモデルとなった事件では、Brandonの友人だった黒人男性Phillip DeVineも殺害されているが、映画では存在すら描かれていない。

それと、Paris Is Burning('90)もKiki('16)も好きで、今でも好きだけど、知らなかった、考えなかったこと。

Paris is Burning, the dark side

https://youtu.be/WkAUulnxv8Q

Paris is Burningの撮影で、白人のみのクルーがBallroomに乗り込んで切り取っていった、その行為の暴力性について。自らも容易に簒奪に加担してしまうことについて。

 

ステレオタイプ化される、嘲笑される、消される。奪われる。

 

女性と男性の非対称性─女性が商品価値があるとみなされる社会的背景を前提に、トランス女性の露出が多いこと。トランス男性だって同じくらいいるのに。

さっきも触れたけど、「女性の地位向上のメッセージがジェンダーの移行によって語られる」奇妙さについては膝を打つというか首がもげるというか。つまりベースは女性蔑視にあるわけで、男性性への移行は上昇であり特権ゲットの手段になってしまう。そう表現されることが定石になる。背景には現実社会で男性の有する特権性があり、それへの無自覚さがある。

#metoo運動でトランス女性の俳優たちが果たした役割についての言及もあった。

実際、番組内で取り上げられた作品におけるトランス(的)キャラクターのジェンダー比率も、女性表象※ がかなりを占めていた。それは「女性性の商品化」と深い関係があり、つまりは女性蔑視と根深く繋がっている。

※多くの映像作品の中でコメディタッチあるいはサイコパスに描かれた「トランス的」なキャラクターも含む

 

何年も何十年もトーク番組で繰り返される不躾で下品な質問。それに答えなくていい、笑ってごまかさなくていい、怒っていい、となるまでにどんなに多くの当事者が耐えたり耐えられずにいたりしたのか。

 

あとはやはり「トランス女性の役柄を、シス男性ではなく、トランス女性が演じることの重要性」は絶対に抑えなきゃいけない。これ、いい加減にしてくんないかなって事例は、枚挙に暇がないですね。呆れちゃうんで言いませんけど。障害のある設定のキャラクターとかもそうで、「最強のふたり」('11)とか当時は割とへーとか思って見てしまったけど、あの、あの感じ!2017年にはハリウッドリメイクされてるんですね。実話ベースとは言っても、貧しい移民の若者が黒人に置き換えられたのは何故?富豪で頸損の白人がオマール・シーな点に疑問は?

 

メモとして、言葉の話も書いておく。

transmanよりもtrans masculineって表現を多く聞いたのが印象に残った。womanはがしがし使われてた。メンバーの構成の問題かな。ちなみに日本語字幕はほぼ「トランス」でまとめていたように思う(当然字幕は可読性との闘いだし、用いる単語がいかに人口に膾炙しているかという問題もある)。non-binaryは対応する訳が「ノンバイナリー」「あいまいな存在」だったかな。なんならqueerも一部除いて「トランス」表記になってたけど、こんなん逐一言ってたらカタカナだらけになるわな。悩ましいですね。

もしもx年後にディスク化されるとしたら表記は変わるのかな、どうかな。配信オリジナルのプログラムをディスク化することがあるのか、私は詳しくないのでよく知らないですが。

 

思い出しながらつらつらと書いてしまった。ハリウッドどっぷり・テレビ大好きって訳でもない自分でも、登場人物たちに惹きつけられて、そしてどんどん出てくる映像に、息を呑み嘆息し怒り笑い揺り動かされる番組だったと思う。