映画『片袖の魚』を観た

東海林毅監督・脚本の短編映画『片袖の魚』を観た。これは覚書です。

映画の原作は文月悠光 『わたしたちの猫』より、同タイトルの詩。こちらで公開されている。

片袖の魚 | ナナロク社

実は私はこの映画を、いわゆる普通に「観たくて観る」映画体験とは異なる形で鑑賞した。詳細は省く。とにかく鑑賞後はフラットな精神状態を保つ必要があったのだけど、どだい無理な話であって、結局かなり動揺したまま時間を過ごした。まあ、そうよね。

そして、その日はジェンダークリニックの通院日でもあって、いろいろと考えざるを得ない状況での鑑賞だった。どういうスケジューリングなのか。

以下、映画の覚書です。ネタバレを含みます。

 

物語の随所で、第三者から無遠慮な/配慮したつもりでその実 無配慮な言葉が発せられるたびに、ひかり(イシヅカユウ)は水槽の中にひとりになる。周囲の喧騒が遠のき、くぐもった音に囲まれる。あるいはひかり自らイヤフォンを耳に押し込み、意識して世界を遮断する。水槽の中で、ひかりは孤独で安全だ。そこに大気はなくて、肺は押しつぶされ、冷たい。

「2階にだれでもトイレがありますよ」

「新谷さんってもしかして男性?」

「俺たちは差別とかしないよ 仲間だし」

「いつからそんなだったの?」

ひかりを水槽の中に住まわせる言葉や視線は、私もよく知っているものだった。それらにまとわりつかれたときの、ひかりの笑顔とも泣き顔とも取れそうな、うつむき加減の曖昧な表情も知っている。無邪気な相手が思うような「体は男性で、心は女性なんです」という通りのよい答えを用意しておくのも、相手の気分を害さない年季の入った作り笑いも、きっとひかりの生存戦略だ。

学生時代の回想で、学生服を着た”少年”のひかりに熱帯魚店の店主が呼びかけるシーン。私は、ひかりの中に確かにある光景なのだと思っている。都合の良い記憶の改竄や、理想の過去を想像しただけだと言って終わらせていいものではない。あのとき熱帯魚店にいたのは確かに、既に「ひかり」で、「お嬢さん」だった。

ひかりは、ひかりをデッドネームで呼び続けるかつての片思い相手にサッカーボールを手渡される。そうして押し付けられた過去を、一旦は受け取るが、突き返す。蹴ったのかな、あのかわいいバイカラーのヒールで。

「私、ひかりだから」

そう言ったときのひかりの顔は、全然作り笑いには見えなかった。

ラストシーン、ワンピースをひらひらさせてひかりは夜の新宿を歩く。肺に酸素が満たされる。水の中は、窮屈で孤独な世界ではない。魚はどこまでも泳ぎ、呼吸をする。

 

私は、ひかりが服を選ぶシーンが好きだった。というか、服が持つ意味を意識していた。ひかりが地元に帰るときにキャリーケースに詰めた柔らかそうなワンピースとヒールは、当初は好きな相手に見てもらうために選んだに違いない。だけど、ラストでそれらを身につけてネオンの中を行くひかりは、鏡の前でとっかえひっかえしていた時よりずっと自由だ。自分のための表象。なんと言っても、その足に履いたヒールは、過去を蹴り飛ばして自分の道筋を「延長」したばかりだから。

 

登場シーンは多くはないが、車椅子ユーザーの辻(猪狩ともか)がひかりの同僚として自然に登場している点を嬉しく思った。そして直後に、いや、それが当然なのだと思い直しもした。ひかりや千秋(広畑りか)らトランス女性の役を、トランス女性が演じるように。既に共に生きている存在がエンターテインメントの文脈でなめらかに登場し、そして必ず当事者が演じることが必要だ。「嬉しい」「画期的」などと思わなくてよい日が、一刻もはやく来なければならない。