フラッシュバック注意という注意書きに吸い寄せられがち(性暴力被害とかの話)

 

 近所の川が泥水になった嵐の中歩きながら、twitterで回ってきた「フラッシュバック注意」の注意書がついた記事を読んで、ご丁寧にフラッシュバックした。その場で抱えきれないほどの酷い憔悴はしていないつもりだけど、久しぶりに公開日記を書きたくなる程度には動揺しているみたい。

 

  ところでどんな内容の日記を書くときにも、(私の経験は私のもので、あなたの経験はあなたのもので、ほかの誰のものでもない)と心の中で唱えつつ、同時に(こんなことは些細なことで、誰でも経験していることで、私が書くことに意味はない)という思いから逃れられたことはない。だから、推敲もせず長ったらしく書きなぐった文章を、最後の最後で下書き保存、くりかえすこと幾日幾夜。でも今日は、外に向かって独り言を言いたくなったので、言う。大したことないとか、だから何、とかは、私がいちばんわかっている。わかっている。

 

 

 

 昔から私は、人当たりよくしていること・好感を持たれることは義務だと思っている。それしか私にはできないと思っているから。好感をもたれねばならない、という義務感をぬぐい切れた経験は、片手に収まる友人の前でしかないのだけど。

 とにかくニコニコうんうん頷いて、やわらかい言葉を選んでケアしてどこにでも一緒に行って、ってしてると、にんげんが、つけ込んでくる。悪意の多寡問わず、そういうにんげんは無意識にコントローラブルなにんげんを求める欲求が強くて、私みたいないきものを捕らえるレーダーをデフォルトで搭載している。そして獲物は、何事も拒まずに、その域内に自ら進んで捕らわれ続ける。

 たとえ時間的拘束をされても、感情労働が義務化されても、身体を侵されても、私はニコニコをやめなかった。ニコニコしていれば、私には価値があるから。

 

 私を踏みにじったにんげんたちについて、思い出せることはたくさんあるよ。店の名前を連呼するBGM。ごちゃごちゃの押入れ。レースのついた下着。めくれた皮膚と痣。安い線香のにおい。聞きなれない異国の言語。洗面台を水浸しにする使い方。ハウスダストアレルギー。素手でむしったパン。ハードジェル。血のついた白いTシャツ。

 

 びっくりするくらいにほとんど覚えていないのは、名前。ひとりひとり、名前を知ってる程度の関係性はあった。それは部活の同期だったかもしれない、バイト先の先輩だったかもしれない、友人のパートナーだったかもしれない、職場の知人だったかもしれない。でも名前を覚えていない。名前は何よりも個人を識別するもの。名前を忘れることで、私は私を守っているのか、どうか。

 

 私はもう、あんまりニコニコしないでいたい。