歳を取ることと、その先を想像すること

自分が歳を重ねていくイメージはできるか。できてたか。

私はできない。できてこなかった。歳を重ねた姿どころか、1年先の自分の有様を想像することすらできないまま、今の年齢になった。今も将来の理想とかそういうの、ない。歳を取るのがいやだとか、そういうことではない。

ひとが生まれて子どもからだんだんおとなになり、20代を経て、30代になったらすでに成人してから2桁年、いずれは未成年でいた時間よりも成人でいる時間のほうが長くなる。中年と呼ばれる年代に入り、更にその先、老いの時間はゆっくりと長い。人間の時間は、そのようになっているらしい。生きればの話だけど。

 

小さな頃の将来の夢は「えかきさん」だった。幼い私は、その年齢にしてはずば抜けて絵が上手だった。周りの大人に褒められるのが嬉しくて、たくさん描いて、たくさん賞を獲った。賞品としての図書券なんかもたくさんもらって、「賞金稼ぎ」と呼ばれたこともあったのを今思い出した。

その次に覚えている夢は、小学校高学年、授業参観日に掲示板に張り出した「医師」。夢の理由は、大人に喜ばれると思ったから。医者になるための「きちんとした」大学に行き、「立派な」肩書を得て、高い収入を得る。それが正しい道だというなんとも貧相な価値観を丁寧に練り込まれて内面化した結果うまれた「医師」の夢。小賢しい、自分を見てほしい気持ちでいっぱいの夢は、参観日の夜の親の「こういうのは人に見られて実際なれなかったら恥ずかしいんだから、書くのやめなさい」という言葉によって終わった。

そのあとは、なんだったか。忘れた。だんだんと聞かされ始める、ライフコースとかキャリアプランロールモデルとかなんかそういう言葉、出会う度に反吐が出る思いだった。キャリア形成なんちゃらみたいな場から、私はことごとく逃げ出した。物理的に逃走した。吐き気をもよおしたのは、そうした場で必ず結婚だとか家族だとか子どもだとか言われるせいでもある。でもそれだけじゃなくて、とにかくいろんなことが重なって、逃げた。

漠然とでも「夢を追いかけたいから」とかいう理由があったらよかったのだろうか。逃げてるうちに、私の中に丹精込めて刷り込まれた「あるべき姿」と現実は乖離して、それでもなおまとわりつく得体の知れない期待と、動かざる性別の壁によって私は潰れた。理想とか将来とかいう言葉は、全然自分のものではなかった。夢とかいうのを実現するために何かしらのアクションを起こすには精神はどん底で、いよいよ本当に死にたくなってた。

でも死にたいままで生きてしまった。立ったり座り込んだり地べたを這いずったりしながらこの歳になってしまった。「自分は○歳で死ぬ」と思ってる大抵の人はそうじゃないか。どこかでぷつっといくかどうかは人によるけど、大抵の人は、ただ生きちゃってる。少なくとも自分は、このブログを書き始めた当初も死にたかったし、そういう日記ばっかりだし、3年以上経った今も状況はあまり変わってない。あ、今日薬飲み忘れてる。

 

こないだ、テレビで黒柳徹子さんのインタビューを目にしたんですよ。若い頃に『ハロルドとモード』を初めて観た黒柳さんは「私、歳を取ったらきっとこんなおばあちゃんになるんだって思った」ということを言っていた。ものすごく驚いた。何十年も先の自分の姿を想像できて、あまつさえ希望を抱けるって、本当に、どんな感じだろう。そもそも私、映画や舞台や小説や漫画やアニメやなんでもいいけど、何かのキャラクターを見て「これは私だ」と思った経験があるだろか。あるいは現実の誰かでもいいんだけど、誰かの姿を見て、これは私の姿、こうなりたい、と思ったこと、ある?ないよ私。なんででしょう。

もう子どもではなくて、若いかどうかもだんだん微妙なラインになってって、でも中年というにはかなり時間がある。まずは中年の自分をイメージしてみるところから始めましょうか。中年の自分。夢も、死にたい気持ちも、脇に置いといていいから。

 

追記:先日、目をすがめると皺が寄ることを発見して「歳とった!」と騒いでいたら、「いいね笑い皺、かっこよくなる」と言われたことを記録しておきます。自分になかった感覚。新鮮な驚き。時間とともに変容する姿形を記憶していこうと思う。