私は今、怖がりながら考えている。
私はひとに自分の考えを言葉で伝えることが得意じゃない。うまく喋れないし、書けない。私にとって言葉は恐ろしい。発信された言葉は意図しようがしまいが誰かを傷つける可能性をはらんでいるし、過去ひとを傷つけまくった私はこれ以上誰かを傷つけることが怖い。だから発信することは怖い。が、私は今この記事で自分の考えを言葉によって伝えようとしている。だから今、私はとても怖い。
でも。言葉が怖いとか伝えるのは恐ろしいとかいう以前の思考・志向として、私はひとを守りたいと思っているようなんだ。近くの、遠くのひとを守りたいと思うし、守られていてほしい。(躊躇なくひとを守れると思うことが傲りであること、それはまた別の機会に。)
何か変だと思った。
私が言葉で誰かを傷つけることを恐れている間、遠くで、近くで、目の前で、傷ついていたひとはどうなるんだろう。
ここまで考えてようやく気付いた。
つまり私は「傷つけることが怖い」と言いながら、実際には誰かに「お前に傷つけられた」と言われることが怖いのだ。結局、守りたかったのは自分だ。
私は沈黙という一見わかりづらい形で加害することで、あなたを傷つけたのは私じゃない、と言い訳できる位置に安住していたのだ。沈黙によって自分を守りながら加害行為に荷担するまさにその同じからだとあたまで、そのひとたちを守りたい、と考えていたのだ。
そんなのはいやだ。おかしい。ちがう。ぜったいに。
だから私は私の考えを私の言葉で伝えることを恐れないことにした。もう傷つけるために沈黙したくない。上手である必要はない。守るための言葉。